1 万国博会場に初送電 9電力で一番乗りの原子力 | 関西電力 株式会社![]() |
関西電力は、日本の電力9社の中で原子力発電の一番乗りを果たしました。昭和36年に原子力委員会が作成した第1次原子力開発利用長期計画に、当社1号炉が組み込まれ、同37年11月に、建設予定地を福井県美浜町丹生地区に決定し、当社で最初の原子力発電所となる美浜発電所の建設がスタートしました。 美浜発電所建設にあたっては、環境対策における周辺の景観保存に努めたことはもとより、安全対策の実施に全力を傾注しました。 | 美浜発電所は、こうした万端の配慮のもとに建設計画が進められ、全社一丸となった推進体制の下、「万国博に原子の灯を」を合言葉に同41年12月に本格的に着工しました。 建設作業は精力的に進められ、同45年7月29日、初臨界に達し、その後の試験も問題なく終了、同年8月8日、美浜発電所の試送電が行われ、約1万kWの「原子の灯」が若狭幹線を通って万国博会場に送られ、お祭り広場を飾りました。営業運転に入ったのは、同年11月28日です。当社技術陣が総力を上げて取り組んだ最初の原子力発電所となる美浜発電所はこうして誕生しました。 |
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美浜発電所1・2号機Aー中央制御室内での 万国博会場への試送電風景 (昭和45年8月8日) |
万国博会場の電光掲示板 |
2 安全技術サービスの創成 | 非破壊検査 株式会社 ![]() |
当社が非破壊検査のパイオニアとして誕生したのは、現社主山口多賀司と東京都立工業奨励館の仙田富男主任研究員(後に大阪大学名誉教授・故人)の出会いからでした。 昭和30年に東京ガス株式会社が日本で初めて高張力鋼板を採用した球形タンクを建設するにあたり、その溶接部の非破壊検査の必要性から、山口は当時わが国を代表する非破壊検査技術の第一人者として知られ、学会はもとより、産業界でも名が通っていた仙田氏のもとで非破壊検査技術の教えを受けました。 |
当時仙田氏は日本における産業の核となる重化学工業の発展とともに、高度技術を集結した各種プラント類の林立を予測し、その安全を守るための技術として非破壊検査の開発と研究に取り組んでいました。 その後、山口は仙田氏の勧めにより昭和32年に大阪の地で非破壊検査株式会社を設立し、非破壊検査技術を核にした“安全技術サービス業”が社会的に認知されることになりました。 |
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山口多賀司 (非破壊検査株式会社 社主) |
当時の東京都立工業奨励館と仙田富男元大阪大学名誉教授(故人) |
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鉄をつくり、未来をつくる。 | 新日鐵住金 株式会社 ![]() |
当社新日鐵住金株式会社は、1970年 に八幡製鐵・富士製鐵が合併して誕生した新日本製鐵株式会社と、住友伸銅場(1897年創業)と住友鋳鋼場(1901年創業)が1935年に合併して誕生した住友金属工業株式会社が、2012年に合併して新しい会社としてスタートしました。 |
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4 天然ガスの青い炎をお客様へ 〜天然ガス転換への軌跡〜 | 大阪ガス 株式会社 ![]() |
21世紀のエネルギー、天然ガス。その天然ガスの導入を当社が決定したのは昭和44年。天然ガス転換は、LNG(液化天然ガス)受入基地の建設、天然ガス輸送パイプラインの敷設、天然ガス転換作業など数多い課題を伴います。中でも転換作業は、ガスの供給区域全体を細分化し、それぞれの地区の供給ガスを天然ガスに切り替えるとともに、一軒一軒のお客さまを訪問し、ガス器具を高カロリーの天然ガスの燃焼に適合するように調整するという膨大な作業が必要でした。 | 昭和50年5月26日、大阪府和泉市から転換作業がスタートしました。お客さまのご理解を得ながら、昭和53年京都、昭和58年大阪市街地、昭和61年神戸へと進み、昭和63年最大のヤマ場大阪キタの繁華街を転換。作業は難航を極めましたが、平成2年12月20日、西宮で転換作業がすべて完了しました。 転換されたお客さまの数は約440万戸、調整作業を行ったガス器具、約2,300万台。準備作業も含めると約20年という長きにわたる当社創業以来の大プロジェクトを無事故でのりきることができました。 |
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お客さま宅での調整作業 | レストランでの調整作業(大阪・梅田) | ブルネイからLNG船第1号・ガディニア号 (昭和47年12月) |
5 ごみは資源「回転式表面溶融炉」 | 日立造船 株式会社 ![]() |
大気中の二酸化炭素の増加によって地球が温暖化している。工業の発達や車の利用が多くなり、排出される二酸化炭素の量 が増加したためだ。工業や車に使われる石油は限りある資源であり、使用量を減らさなければならない。 そんなことから考えて実現したのが、天ぷら油から車の燃料を製造することだ。この燃料は、「バイオディーゼル燃料」と呼ばれている。 | 植物は、大気中の二酸化炭素と水を取り込んで光合成を行い成長する。植物からできたてんぷら油を燃料にし、それを燃やすと二酸化炭素が大気中にでる。もう一度、二酸化炭素は光合成によって植物に取り込まれる。二酸化炭素は大気中と植物との間を往復するだけで、大気中の二酸化炭素の量 は増えない。この考え方は 「カーボンニュートラル」と言われる。 2002年、バイオディーゼル燃料の製造方法の研究がHitz日立造船で始まった。バイオディーゼル実現に情熱を燃やすメンバーによって、いろいろな研究がなされた。品質を良くするために苦労したが、実現に向けて着々と進んでいった。 そして、2004年、家庭から回収された天ぷら油を原料にバイオディーゼル燃料を製造する設備が、京都市に完成した。バイオディーゼル燃料は市バスや清掃車に使われている。 | ||
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京都市廃食用油燃料化施設 |
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バイオディーゼル燃料製造の仕組み |